第二話 生命の営みとは

自然の中での生命〈いのち〉の営みとは、どのようなものなのだろう。

二年前の冬のことだ。雪国の人っ子ひとりいない山奥の細い林道を、朝からサルを探して歩いていた。林道に積もった雪は割りと締まっていて、かんじきをつけないで済む。

左手道端の低木に、サルが樹皮を齧った痕跡を見つける。歩みを止めて近づく。枝先を手にとって冬芽を調べる。マルバアオダモだ。

林道はそこからさらに40メートル先まで直線で、左にカーブしている。ふと私の右手、林道の前方から何がしかの気配を感じる。顔を少しだけそちらに向ける。

と、そのカーブから、耳の先だけが黒くて全身が純白のニホンノウサギが現れ、まさに“脱兎の如く”という言葉通りに走って来る。すぐ後ろを、ノウサギよりひと回り小さい、頭部だけが白くて全身が輝く金色のニホンテンが追い掛けて来る。

前者は後脚で思い切り跳ねとぶ。後者は尺取虫のように背を懸命に曲げ伸ばしする。走り方のコントラストが鮮やかだ。両者は一瞬にして、私のすぐ背後を音もなく駆け抜ける。

林道は二頭が駆けて行く先(私が歩いてきた方向)、30メートル余りまでが直線で、そこで左に急カーブし、カーブした所の路肩は急斜面になっている。

全力疾走中の両者の距離はもうほとんどない。そしてカーブで、テンがノウサギに跳び掛かり、両者は左に曲らずそのまま真っすぐに、もつれるようにして林道を逸れ、急斜面に突っ込んでいく。

すごい光景を見た。あまりの感動に心が震え、熱く鼓動する。私は気を取り直し、二頭が消えたカーブまで様子を見に行く。急斜面の下方で、テンはノウサギを仕留めたのだろうか。

カーブの路肩から下方を覗き込もうとしたとき、カーブの先10メートルほどの林道を、テンが右から左へ横切って行く。いつも見るゆったりとした歩の運びである。ノウサギは逃げ切れたのだ。その姿は急斜面の下方にすでになかった。

しかし、たとえノウサギがその場で捕捉され、テンに食べられていようと、たいした問題ではない。私にとっては、実際は何秒間というほんのわずかな時間だったはずだが、ずっと長く感じられた二頭を目撃してからの一部始終に、生きもの個々が持つ、生命の営みの強烈な燃焼の一瞬を見、両者の全身全霊を賭した神々しいまでの崇高さに深い感銘を受けたことの方が重要なのだ。

ところで、テレビや新聞をはじめ多くの日本人にとって、ライオンは相も変らず百獣の王であり、野生は弱肉強食の掟が支配し、生存競争に明け暮れる修羅場であるようだ。しかし、そのような血生臭い殺伐とした競争の論理でしか自然界を認識できないとしたら、それはなんと哀しむべきことだろう。

一方で、生態学という学問では、捕食者と餌食〈えじき〉、すなわち、食物連鎖という味も素っ気もないひと言で片付け、それが自然の摂理であると説く。そうなると、私の見たテンとノウサギも、その単なる一事例に過ぎなくなる。しかし、個々が厳然として持つ、生命というものを消去した平板な数の論理でしか自然界を認識できないとしたら、それもまた、あまりに哀しむべきことだろう。

いかに楽をして美味いものを食べるかが、すべての動物の日常の生を律している。その中にあって、生命の炎が燃え立つ、雪深い林道で目の当たりにしたと同様のきらりと輝く神秘的な刹那を求めて、私はこれまで大自然行脚をひたすら続けてきたのかもしれないと、この頃よく想う。