第六話 岩にしみ入る声のセミ

11月下旬、夕日が真っ赤に染まり、棚引く雲を黄金色に輝かせ、瞬く間に西方、奥羽山脈の山の端に落ちる。乾いた空気がことのほか冷たい。あたりが深い静寂に包まれる。

私はいま、牡鹿半島の先に浮かぶ島、金華山の、南北に走る稜線に伝い、宿舎(調査小屋)への帰路についている。夕闇が迫り来る。

その、透き通るような闇を切り裂いて、オスジカが稜線の西側かなり下方で<ホイ―ヨ―――>と啼く。この時間帯によく聞くメスを呼ぶ恋鳴きである。少し離れた所でもう1頭。恋鳴きは両者が2回づつ啼いて止む。

声のした一帯には、樹齢数百年のモミの巨木が林立する大きなパッチがある。稜線から見下ろすとそこだけ際立って黒い。そして恋鳴きの最後の<ヨ―――>は、低く長く、か細く引きづって、漆黒のモミ林に吸い込まれるように、溶け込むようにして止む。哀愁を帯びて聞かれるこの声ほど、背景とあいまって、私を感傷的にさせる生きものの声が他にあるだろうか。

私の記憶におぼろげながらあるとすれば、それは、幼少の頃の虫捕りに遊び疲れ、山道に迷う一抹の不安と寂しさを覚えながら、薄暗さの増す雑木林で聞いたミンミンゼミの声だ。

戦後まもない私の田舎町は、おそらく江戸時代から連綿と続く里と野辺と里山のたたずまいを、まだ色濃く漂わせていた。当時アブラゼミは町(里)のいたる所にいて、真夏の炎天下、電信柱や物干し竿にまで止まって、暑苦しい声を張り上げ、大人たちにはあまり好かれていなかった。同じ町なかの小学校や野っ原や小川の堤にはサクラの木が多く、ニイニイゼミが<ス――――チ――――>と高い抑揚のない声で鳴いていて、誰も気にとめようとはしなかった。

田舎町の野辺(里と里山の境界域)にはいくつかお寺があり、お墓は大木に囲まれ、背後が里山の雑木林につながっていた。そのお寺の周りがクマゼミやツクツクボウシのおもなすみか、雑木林がミンミンゼミやヒグラシのすみかだった。

晩秋に金華山で聞くシカの恋鳴きから、突然幼い頃のセミの話になったが、それは、松尾芭蕉が生きた江戸時代のセミのありようを、いくらかなりとも類推してみたかったからだ。アブラゼミは当時も江戸の町なかにいたはずだし、マツ林を好むから東海道五十三次の街道筋にはどこにでもいて、誰もが知っている馴染みのセミだったに違いない。そして降り注ぐ灼熱の太陽のもと、うるさいほどにさわがしく鳴くアブラゼミの声に、特別な感傷を覚える人はいなかったのではないか。またニイニイゼミも江戸八百八町を縁どるサクラ並木にはどこにでもいて、朝方の声からはなにがしか涼しさを覚えをとしても、それ以上でも以下でもなかったはずだ。

だから芭蕉も、これら2種のセミの声は聞きなれていたと思われる。2種のセミが江戸時代の文芸作品にロマンを伴って登場するのを、浅学非才の身だが私は知らない。

ところで、芭蕉は1689年の奥の細道の旅で、新暦7月13日、山形県の尾花沢から徒歩と馬で山寺(立石寺)へ向かう。山寺に着いたのは午後4時頃という。麓の坊に宿を借りたあと、岩山を穿って建つ12院を、急坂を登り降りして巡る。時刻はもう5時を回っていたかもしれない。そのとき詠んだ句が有名な「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」である。

私がこの句に接したのは中学の高学年か高校に入った頃だろうか。授業でなに蟬かの話はなかったと思うが、その蟬はミンミンゼミだと私は思い込んでしまった。長じて私は野生ザルをわびさびの世界とは縁遠いアフリカの原野や南米アマゾンの亜熱帯や熱帯に追い続けたこともあって、芭蕉の俳句に関して不勉強を恥じ入る次第だが、芭蕉の詠んだ蟬がアブラゼミかニイニイゼミかの大論争があったことは迂闊にも知らなかった。それがこの夏、朝日新聞の天声人語に載って晴天の霹靂の思いだった。思い込みとは元来そういうものかもしれない。

そんな個人的なことはどうでもいいのだが、芭蕉は最初「岩にしみつく」と詠み、のちに「岩にしみ込む」と訂正、最後に「岩にしみ入る」になったという。そのいづれにしても、馴染みのアブラゼミやニイニイゼミの声では、芭蕉の感性が揺さぶられたとはどうしても思えない。大論争の末の結論ニイニイゼミだとしても、その声は先に書いたように単調で抑揚がなく、閑さそのものに同調することはあっても、岩にはしみ入らない。

しかもその日、芭蕉は七里もある尾花沢から山寺までの遠路を、途中馬を使ってはいるが、夕方4時までの短時間で行き着けたのだから、道中雨が降ったり風が吹き荒れたりという悪天候であったはずがない。好天だと2種とも朝からのぶっ通しの鳴き疲れで(実際には交尾相手のメスが見つかって)、夕方遅い時間まで鳴き続けることはない。

そうすると、羽化の時期が最も遅いツクツクボウシや、<ギ―――>と低く一本調子で鳴いて唐突に鳴き止むエゾゼミとコエゾゼミを除くと、あとはミンミンゼミとヒグラシが残る。そしてシカの恋鳴き同様、<ミーウミウミウミ―――>と抑揚に富み最後が細く尾を引きずるように鳴くのがミンミンゼミ、高い音程の単調な声で<カナカナカナ・・・・>と鳴くのがヒグラシである。

時期や標高からして、ミンミンゼミが羽化するにはやや早い気もするが、初鳴きが数日とか一週間年毎にずれるのは、第5話で書いたとおりである。それに1匹か2匹、最初に羽化したミンミンゼミは、どっと羽化する最盛期より、ひと声ひと声がゆるやかで長めである。

山寺の夕暮れの深閑とした空気が支配するなか、巨岩だらけの風景に消え入るようにして鳴き止むミンミンゼミの、皆より少し早く羽化した1匹か2匹の声だと、独特のわびさびの世界に芭蕉が浸るのに十分だ。

蛇足だが、芭蕉が蟬を詠んだもう一句「頓(やが)て死ぬけしきは見えず蝉の声」は、奥の細道の旅を終えた翌年、今の滋賀県大津市にあった幻住庵滞在中のものだが、生を謳歌するが如くに勢いよく一心不乱に鳴く声の主はおそらくクマゼミで、芭蕉はその蝉時雨を毎朝方、ごく近くからいやというほど聞いていたに違いない。

ここで再び最初に述べたシカの恋鳴きに戻る。芭蕉はシカの声も句に詠んでいないだろうか。『芭蕉句集』(岩波書店,1962年)をひもどく。一句見つける。奥の細道の旅の5年後、弟子の支考と奈良に遊んだときの「びいと啼く尻聲悲し夜の鹿」だ。啼き声の「びい」は<ホイ――ヨ―――>と同じで、尻声とは啼き終りが長くあとに引く声のことである。『芭蕉句集』の注釈には、鹿の啼き声の末を含み声で長く旋律的に引っぱるのをいうとある。やはり芭蕉はシカの恋鳴きを耳にして哀愁を覚えていたのだ。また、そのとき弟子の支考が詠んだ「鹿の音の糸引きはえて月夜哉」を、注釈者は伝統的な情緒にとらわれず実感を端的直截に表現しているという。

金華山の秋の夕暮れ、稜線を歩きながら、シカの恋鳴きがないと、ときに立ち止まることがある。その場所が運悪く採食中のシカに近いと、シカは「そこを離れろ」と、<ピイッ>という威嚇の声を続けざまに私に浴びせる。私が歩を先へ進めればすぐに止むが、その声は晩秋の帳の降りた夕闇のなかではあまりに場違いであり興冷めで、同じシカでも、この声ではさすがの芭蕉も句を詠めないだろう。

あれやこれや、いささかとりとめなく書いたが、私にとって芭蕉が夕暮れの山寺で聞いた岩にしみ入る声の主は、誰がどう言おうと、蟬の中で唯一尻声で鳴けるミンミンゼミでなければならない。